★島ことばの散歩道21
=横山晶子
◎全てのバス停に、しまゆみた
コロナ禍に巻き込まれる前の1月、「喜界島の誇りを守る。バス停全部の表示板に島ことばの地名を!」というクラウドファンディング(インターネット上の募金活動)が成功したという知らせが届いた。喜界島の全てのバス停に、しまゆみた(方言)の集落名とそのアクセントを書いた表示板をつけるプロジェクトだ。全国から70万円を超える寄付が集まり、現在準備が進んでいる。
プロジェクトを企画したのは、喜界島言語文化保存会。2917年に喜界島在住の生島常範さんと喜界島2世の緋月真歩さんが中心となり発足した。生島さんは中学生の時に島を出たが、本家の長男であるため、いつかは島に帰ろうという思いがあった。
大学で中国語を学び、台湾で、学生、日本語教師、商社マンなどをしながら9年間暮らした。台湾人の友人は外では共通語の北京語を使うが、家では現地の言語を使って、子や孫に台湾の文化を伝えていた。その姿を見て、自分たちも家庭ではシマことばを使うことを決意。同集落出身の奥さんと、台湾で喜界島・上嘉鉄のことばで子育てをした。32歳のとき、島の言語や文化を学ぼうと一念発起し、島に戻ってきた。
緋月さんは両親が喜界島出身の造形作家。幼い頃に島に住み、目にした海の青さ、香り、鮮やかさが原風景になっている。その情景の一つが、しまゆみた(方言)だった。緋月さんが、自分の思いが的確に表現されているという島尾敏雄の『ヤポネシア序論』には「心のひだを洗う感情への訴え、求める力、めりはりの効いたイメージの喚起力、大胆でユーモラスな言い回しなど方言のもつ豊かさが再認識されつつある。私たちは方言に誇りを持っていい。いや、誇りを持たなければならない。」という一節がある。その言葉の通り、方言には感動的に豊かで深い表現があるという。その方言が危機的状況にあると聞き、絶対にこの言葉を残したいと、喜界島に拠点を築き、愛知と行き来しながら活動を続けている。
2人が最初に注目したのは方言劇だった。喜界島では「方言の日」にちなんでたちが方言劇をするが、最初の頃、方言がおかしいと笑われて、子どもたちががっかりすることもあった。そこで思いついたのが「わらび・しまゆみた狂言」。狂言は笑うためにあるので、大いに笑って結構。子どもたちには本物に触れさせたいと、京都から狂言の講師を招き、衣装や舞台にもこだわった。半年間、毎週方言の稽古もつけた舞台は本格的なものだ。 こうしたイベントと並行して、日頃から方言に親しんでもらおうと始めたのが、バス停のプロジェクトだ。方言をバス停に表記することによって皆の目に留まる。そこから、方言を話す世代と若者や旅人の間に新しい交流が生まれるかもしれない。他にも、八月踊り・シマ唄の保存・継承、シマユミタの勉強会など、精力的な活動が続いている。
生島さんの究極の目標は「自信と誇りの回復」だという。島の言葉や文化に誇りを持てば、自ずとオリジナリティーが生まれ、それが観光へ、経済へと良い影響をもたらしていく。生島さんが掲げるThink Globally, act locally(グローバルに考え、ローカルに行動せよ)は、子どもたちが島のアイデンティティーを持って世界へ羽ばたく一つの指針になるだろう。
(日本学術振興会特別研究員/国立国語研究所)
▽写真説明
しまゆみたバス停表示板(撮影:中山武三)